自筆の掛け軸を背に、「この念仏堂も、村の人や有志の方の浄財で建てられたんや。 無一物即無尽蔵」と語る松五郎さん=橿原市の自宅で
写真・吉田淳記者 1979年1月11日読売新聞より |
隣村へ使いに行かされた。母は「山道やさかい、ぞうりを履 いて行き」と言う。ぞうりで出かけようとすると、庭先にいた
父が「雨が降りそうや、げたを履いて行け」と命じた。母は「ぞうりや」。父は「げたや」と譲らない。松五郎さんは、片 足にぞうり、片足にげたを履いて、人の笑うのも意にとめず、
ヒョコヒョコと歩いて行った。 江戸小咄(こばなし)を地でゆく話だ。
通称”大和の松五郎”奈良県橿原市城殿町一五四、 皮革裁断業、松並松五郎さん(六九)は、 妙好人(みょうこうにん)である。妙好人とは、特に信仰の厚い淨土系の在家信者で、徳行に 富んだ人を言い、故鈴木大拙博士も、その幾人かを紹介した ことがある。しかし、著名な妙好人は、昭和初期で絶えた感が あり、松五郎さんの存在を知って、はじめてその系譜が続いていることに少しばかり驚かされた。 |
松五郎さんと接して、信仰上の大転換をした人が数多い。三重県四日市市中浜田町二の五、「東漸寺」の東見敬住職
(六八)もその一人。昭和二十四年、松五郎さんから、ある和上 さんの詩の一節を聞かされて、「でんぐり返る思いをした」と 語っている。その詩とは、「我れ称(とな)え我れ聞くなれどこれは
これ大慈招喚(だいひしょうかん)の声なり」というものである。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という一声、これは 自分が称えると思っていたのに、この一声が如来様のよび声 であったのか!以来、見敬住職は、自力の念仏から親鸞聖人 の絶対他力念仏へと目覚める。竜谷大学の研究科まで出たプロ が、小学校卒の学歴しか無いアマチュアに教化された、と率直 に、謙虚に公言してはばからない。余談ながら、三重県は淨土 真宗高田派の盛んな土地で「東漸寺」の隣の「崇顕寺」は作 家、丹羽文雄の生家である。 |
松五郎さんは「私は無学じゃで、なんもお話し出来る人間で
はありません」が口癖だ。「何か話してほしい」と頼んでも、
固辞するので、一計を案じた見敬住職は、酒を用意する。
酒好きの松五郎さんは酔うほどに口・が軽くなり、歌や法語が
あふれるように飛び出す。見敬住職は
「心を針のごとくとがらせて」一心に速記する、こうして刊行され
たのが『松のしずく』という題の松五郎さんの一言行録である。
膨大な法語集から抄録するとー。 よびづめ立ちづめ招きづめ弥陀はこがれてあいに来た その御姿が南無阿弥陀仏 現世利益は、子供にオモチャを持たせたようなもの。 魚を釣るエのようなものである。宗祖は御利益目当ての御念仏ではない。念仏しているまま、現世の御利益は 味わわれる。 |
語彙(ごい)は豊富、書は達筆、比喩(ひゆ)も巧みで、 当意即妙の話や歌が多い。例えば仲の悪い嫁としゅうとめが訪れ白扇を出して、何か歌を」と所望した。松五郎さん、すかさず筆を取って
竹と紙仲よくなるのも糊(法=のり)のためあおぎあおがん骨になるまで 「念仏をやると、宗祖様の教行信証もスッと入れますんや」 「浄土系は易行言うけど、やさし過ぎて、難しい」 今年、古希を迎える松五郎さんは、これまで三冊の本しか 読んでないが、八人のやくざ者を更生させた。「こうしてお会いしたのも、何かの御縁じゃ。念仏は強いる もんじゃあないが、あんたも一声称えなされや」と言われたが 「我」が邪魔をして、いまだに、ナムアミダブツが出ない。なる ほど、念仏は難しい。 (松) |