個の回復としての宗教
とインターネット

鮒河秋夫氏(ご本人の希望で字
を変えています)/池田好隆

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※お2人とも、あの世に旅立たれました・・・・頭の良すぎる人は長生きできないのでしょうか?
鮒河氏 池田氏

雑誌KIWI1996年2月号より

サイババブームを考える
池田
インドも9回目だそうですが、最初に行ったのはいつになりますか?
鮒河
92年です。翌年頃から日本でサイババブームが起き始めました。
池田
サイババのアシュラムを訪ねるのは日本人が多いと聞きますが、
日本人にとって何が魅力なんでしょうか。
鮒河
ディズニーランドと同じで、おもしろいからじゃないですか。
池田
ディズニーランドですか?
鮒河
いわゆる「精神世界」という言葉が流行しましたが、別段、精神的な面で日本人が劣っていたわけじゃないですね。精神的なものについて話したり、考えたり、行動したりするということを、この百年間くらい忘れていただけで、最近になってまたそこに戻ってきたというか、興味を見つけだしたと言いますか。
そのとき、「こういうことを考えてもよかったんだ」って改めて感じたことにびっくりした、じゃあ、どうしようか…というとき日本人特有のブランド志向というか、カタチから入るという習性が、サイババに行き着いたのじゃないですか。そういう意味で、ディズニーランドやハウステンボスに似ていると思っているんですが。
池田
それにしても一種異様なブームに思われるのですが。その前には超能カブームがありましたね。どちらも、一見近代西洋科学というか、物質優先の社会の限界の上に出てきた現象のようであって、実は科学や物質を絶対化してきたまさに逆の側面で、超能力は確かにあるか、確かにないかという正解ごっこ、結局は科学絶対の延長にあるのじゃないかと思いますが。
鮒河
オウムの事件で、宗教アレルギーというのもありますが、教団=宗教ではないですね、本来。サイババみたいなのがなぜ流行するか、そのひとつは自分の教団に所属しなさいとか、私の教義を信じなさいということを言わないわけです。お布施を強要されることもない。今まで私たちが、宗教=教団という関係の中で抱いていたイメ:ジと全然違うものであり、精神的な渇きを癒したり、内面を考える上で非常に都合がいいと言いますか。もうひとつは、空中からさまざまなものを取り出すという、物質化するという、人間の根源的な部分を揺さぶるショッキングなところがあって余計に受けたのでしょうね。論理だとか當識だとか、理性の範晴を超えた現象に心揺さぶられて、新鮮な驚きを感じた。しかも"奇跡"は、宇宙とは何か、世界とは何かという、人が根源に持っているものを刺激しますからね。
アシュラム遠景 アシュラムと少年
日本人は「精神世界」のビギナーだ
池田
サイババブームが起きる前、アメリカから心理学ゲームが入るとか、内観療法や断食、ビジネスでは成功哲学で夢や目標を具体化して未来に進んでいくようなものがブームとなり、その後の「精神世界」「心の時代」に辿りついたのですが、これらの一連がサイババブームの前章と言えるのではないかと思います。大いなる渇きというようなものですか、それが日本でのサイババブームに火をつけたのではないでしょうか。
鮒河
聖者が奇跡を起こすというのは昔はあったわけです。ところが、いわゆる近代の西洋的なモノの考え方において否定されてきた。それが復活したというか、驚いてもいいんだと許されてきた。渇きが癒されたわけです。奇跡を信じるのは低レベルの人間だぞ、みっともないぞという近代社会の蓋が外されたと言いますか。それがサイババの出現で拍車をかけられたのでしょう。
池田
ところが日本では聖者としてのサイババの思想よりも、むしろ超能力者としてのほうがクローズアップされていますね。
鮒河
そうです。オウムの事件があると、サイババも危ないんじゃないかという声が出てくる。確固たるものがあるわけじゃないから。昔、乗用車が家庭に入り出した頃は乗用車がお客様で、どんな車に乗っているか、クラウンかカローラか…に意味があったのですね。それでピカピカに磨き上げて休日には家族そろってドライブに出掛けたり、お正月にはしめ飾りをつけたりしていた。それと同じで、サイババの本質は置いて、サイババが何をする人か、どんな能力を持つ人かという精神世界のお客様なんです。また、おもしろいことに、サイババのアシュラムには全然束縛がないのに日本人グループは束縛を作りたがるんですね。サイババの教えはこうだからこのようにお祈りしましょうとか、考えましょうと。本来意図した個人の魂の進化とは方向が変わってくる。
池田
そっちのほうが楽だからですね。集団でルールを作ってそれに乗っていくというやり方が。
鮒河
ええ。あえて精神世界という言葉を使えば、日本人は精神世界のビギナーです。まだ感性を充分に取り戻していないから不慣れで、精神世界自体がお客様なんですね。
インド舞踊 バザールにて
宗教とは
池田
文化人類学者、上田紀行さんの最新刊である『宗教クライシス』(岩波書店)は、21世紀の地球社会を展望するとき宗教は最も重要な焦点であると始まり、タイトルの宗教クライシスには宗教による危機と宗教の危機と二つの意味を重ねているのですが、宗教ということについて鮒河さんはどう考えていますか?
鮒河
よく、日本には宗教がないという表現がされますね。日本人の思想を支える 宗教がないという意味でしょうが、私は、日本人はまさに宗教的だと思うのです。日本人の特異性のひとつに、虫の音を聞き分けるということがありますね。風の音もそうですが、日本人は言語脳で理解する。これは西洋人とは大きく違うところで、そこの部分について感じたり考えたりすることが宗教であると思うんですね。ですから、日常の中で宗教的な行為をしているのに、それについて深く洞察したり語ったりしないんです。日常性から離れて、「教団」に属するとか、何かしらの「教義」を信じることを宗教だと誤解している。この、宗教への誤解が「教団」に走ったり、宗教へのいわれなき偏見を生んでいるわけです。精神世界ということが言われ出して、さてどうしようという時、内面に入っていけば問題がないのに、ノウハウを知らないというか、宗教=教団という誤解が宗教ブームになるわけです。
池田
「宗教みたいだ」という拒否反応もそこにありますね。異常なものという意識。「宗教みたい」が虫の音を聞き分けるということであるとは思えない。宗教には、人の力、常識の及ばないエネルギーやパワーを感じて、それが現代人にとって一方では畏れであり、一方では怖れではないかと。
鮒河
宗教の語源を遡れば、ラテン語の『レリジオ』になりますが、この言葉が意味しているものは、結び付けるとか拾い上げるということなんです。本来、こういうシンプルな意味合いで宗教をそう捕らえてきたのです。ところが、日本にあった宗教という言葉は、宗の教えですから、つまり天台宗の教えだとか、真言宗の教えであるとかになりますが、明治時代にレリジョンという言葉が入って来て翻訳するとき、これを当てはめてしまったんですね。ですから、西洋人が『レリジョン』に抱いているようなイメージを、その頃から抱きにくくなってしまった。なまじ、言葉を当てはめたが故に。私自身はあまり好きではないけれども、「精神世界」というくらいの意味だったわけです。「精神世界」のほうが教団ではない本来の宗教的なものでしょうね。
組織からの脱却
池田
直観力とか調和なども、宗教性のひとつでしょう。本来、宗教というものは、個々がよく知っていると思います。それを口に出せなくなったのは、人間の変化というより、文化というか、社会の変化じゃないでしょうか。答え自体は、深くも浅くも、個々の内にある。鮒河内面に深く入る、洞察することを助けるものはすべて宗教性だと思います。ですから『共生』という言葉などもそうですね。
池田
宗教=教団という図式の中ではルールや教義に則るという性格が出てきます。そこではもう、あるがままというのは認められない。
鮒河
楽だからです。ルールや教義に則るほうが。考える習慣がなければそっちに行ってしまいます。霊的な存在として人間を見たときは、古い魂も新しい魂もあるのですが、新しい魂のほうがはまりやすい。霊的な経験が少ないから。こういう話は、シュタイナーの本などに整理されていますが・・。
考えることをストップすると、組織にはまったり、教義にはまってしまう。楽だから。考える、意識を働かす、すると組織や教団に止まってはいられない。確信を持って、より深くへ行こうとしますから。中には、確信がたまたま教義であるという場合もあるでしょうが・・・。われわれは近代において最初に言葉を教えられ、次に数の概念なんかを教えられるわけですが、魂の概念や自己の存在概念を教えられることはないですね。観察とか思考とか、本来人間が生まれてきてしなければならないことには蓋をされてきた。近代というより人類が国家や社会の概念を獲得したころから蓋が始まったのじゃないかと思いますね。
池田
支配構造が出てくると、管理という意識が芽生える。先程の虫の声を聞き分けるというような宗教的なものも、支配構造の中で変化していったのでしょうね。このあたりの始まりは、古代にまで遡ってしまいますが。共同幻想論というのがありましたが、共同で何を夢見るか、全体と個とのバランスに問題があるでしょうね。
臨死体験を経て
池田
大谷大学を卒業されていますがお寺さんの子息でないのに、仏教系の大学を選んだ理由は何か特別なものがあったのですか?
鮒河
実は16歳の時経験した臨死体験がきっかけです。私は高校生の頃柔道をやっていて試合の時にいわゆる”落ちた”んです。落ちるというのは、窒息状態で、何度も経験があり、通常はすぐに復活するのですが、どうもひどかったらしくて呼吸も心臓も2分間位止まってしまった。医学的に死んだかどうかは定かではありませんが、いわゆる肉体から魂が離れた状態で、寝ている自分を見ているんです。それから建物の外に抜けていくと塀があって、塀の向こうに玉葱畑があったんです。よその会場で試合をしたので、知らない土地なんですね。後から確認すると確かに塀の向こうは玉葱畑でしたが。そこを抜けてフワフワ行くと、大きな大きな光の玉が飛んできた。見たこともない大きな光で、ものすごく明るいけれど眩しくも熱くもない。えもいえない光なんですね。その中に入ろうとしたとき、後ろからオーイ、オーイと呼ぶ声がして、そちらに意識がとられた途端にスコンと肉体に魂が戻った。気がつくとみんなが騒いでいるんです。そのときは臨死という言葉も知りませんでしたが、これはヘンだ…。格闘技とかがイヤになり、争い事がすべてイヤになりました。それで宗教書などを読み出して、上昇志向というか、いい大学に行きたい、いいところに就職したいという意識が全然なくなった。
後から知ったのですが、そういう体験をすると、人生観や世界観が変わるということがよくあるそうです。それで親鸞の本を読むうちにもっと知りたい、自分も僧侶になりたいと思うようになり、大谷に入りました。
池田
大学ではどうでしたか?
鮒河
結論から言うと失望しました。結局、教団の延長上に大学もありますから、その頃から宗教と教団は違うのじゃないかと思うようになった。教団と精神の深みには一致を見ることができませんでしたから。
池田
その後も「レリジオ」の方には興味があったわけですね。
鮒河
大学には7年いて卒業しましたが、就職した先が地獄の特訓なんかに行かせるような会社で、軍歌を変え歌にした目標突破の歌を毎朝歌って、拳を突き上げて気合を上げるようなところだったんですね。当然と言いますか落ちこぼれまして、会社にとっても役に立つ人間にはなれませんでしたし、家業を手伝うということで浜松に帰り後はキウイとの出会いで、眠ったものが開花しまして…。
池田
初めて会ったのは5年位前になりますか?キウイの代理店をしていただき、セミナーなどに参加いただいたり、講師を努めていただくようになりましたが。
鮒河
勝手に生きるようになったというのが正解ですね。
インターネットと個の回復
池田
パソコン通信を始めて、今はインターネットをされていますね。
鮒河
ホームページを依頼されて作ったりしています。今、浜松の仲間とバーチャルシティ、仮想都市を作っているのですが、将来的に考えた時世界的な規模でバーチャルシティ、バーチャルショップが作られ、マネーすらもバーチャルになるのじゃないか。すると資本主義の終焉もひょっとすると、インターネットから起きるのじゃないかと思います。
池田
国境もなくなる。最近、住専問題をテレビで見ていて特に感じるのですが、この数年でニュースの形態が大きく変わりましたね。以前は、アナウンサーがニュースを棒読みするのが普通で、見る側の意思もアナウンサーの意思も反映されることはなかった。今のニュースはツーウェイで、番組をやっている最中に国民の声というようなFAXが入ってそれをリアルタイムで紹介したりするんですね。アナウンサーもキャスターと呼ばれて、どんどん自分の考えを言って、不満とかを表している。ニュースがひとつの主張なわけです。
今までは、一票を投じて政治に参加しましょうというのがありましたが、一票を投じても政治に参加できない構造というのがもうはっきりしすぎているから、自民党がダメなら社会党にしようというのじゃなく、もう投票はやめようというように質自体が変化している。こういうことが、インターネットと共時性と言いますか、同じ時代に現れた現象であることに注目できますね。フランスの核実験に世界中が反対してしまっても核実験が行われるような構造には、今までとは質を変えたものでなければ対応できないと言うか、そういうものの現れのひとつにインターネットがあるという見方は出来ませんか?
鮒河
現実に起きたことで言いますとフランスの核実験に抗議するというホームページを個人で開いたのですが、そこに世界中から何万という署名が集まったということがあります。街頭で署名を集めてもそれだけ集まらない。それをデジタルに載せただけで、世界中からドッドッドッと集まってくる。そういう意味で、世界中の双方向の意見が出始めると思います。そこから世界の世論も出てくるんじゃないか。今までは世界の世論といいながらアメリカの意見であったりしたわけですが。
池田
たとえば個人が核実験に反対であっても、命令によって核弾頭を運ぶトラックの運転をするというような構造、これはいろんな部分でそうなんですが、そういう機構が崩れるんじゃないかと大きな期待を持っていますが。これが崩れることのほうが、資本主義の崩壊よりも劇的なことじゃないかと。
鮒河
インターネットのような新しいものの出現で、今まであったものが陳腐化してしまうということですね。議会制民主主義は、究極の意志決定であるとか行動を決定するよりどころという錯覚がありましたが、幻想は崩れつつありますね。
池田
ロッキード事件の時、当時の首相田中角栄が国会で召喚を受けて、有罪が確定したわけですが、その後、やはりトップ当選を果たした。まさに今の構造の象徴だと思う出来事ですが、個が全体に届かないシステムが完全に作られてしまっている。そういう中で絶対的な個人の価値は失われていますから、教団=宗教がその隙間に入ってくる。議会制民主主義の限界も宗教の問題も同じ構造上にあるわけです。
鮒河
自身のよりどころと全体が一致していない。内面深く自己をかえりみるという環境が作りにくくなっています。
池田
インターネットは、一方で過激なポルノの問題が起きていますが。
鮒河
そうですね。一旦政府とかの規制が入ってしまうとインターネットのよさがなくなってしまいますから、なるべく使う人は正しい方向でやって欲しいと切に思います。
個の時代
池田
個の時代と言いますか、一人ひとりの思考の時代ということを感じますね。一人ひとりが考える時代。投票率の低下を見ても、以前とは違う主張がそこにあると思います。投票しないことが最善の方法かどうかは別にして、属さないという選択。私は、こういう時代背景でインターネットが出てきたのに興味を覚えているわけです。
鮒河
インドに話を戻しますと、インドは混沌とした中にありながら、犯罪が非常に少ないんです。詐欺とか置き引きとかはありますが、傷害事件や殺人といった凶悪犯罪がない。陰湿なイジメのようなものもない。実際テロもありますが、人口比にして非常に低いことと、アメリカ社会のように人間の本質を覆すようなもの、社会の病理が現れたという類のものではありません。そこでは、個が何を考えているかということもありますが、非常に確たる道徳観を持っているからだと思います。個々のアイデンティティーの中で、していいこととしてはいけないことが明確化されている。その分効率が悪かったりして、近代に乗り遅れてしまった。諦めの境地というのもありますが。
談笑する2人 鮒河氏の肩に手を置く池田氏
調和の視点で
池田
インドは日本のような物質社会ではないから、いい車に乗っているとか高学歴である、年収が多いというタイプの評価が出来にくい。そういう属性や色の判断は無効と言いますか。混沌の中で9億の人が生きていながら、アイデンティティーを確立しているのですね。死に対する感覚も私たちとは違いますね。輪廻転生を含めて。日本の教育で、死そのものを教えることはない。霊的な教育がないと同じ土壌でしょう。ですから、私たちの死は関係性の死、私との関係性の死で、そこにどうも恐怖を覚えるのじゃないかと思います。死や魂について考える機会があまりにも遅く、少ない。
鮒河
霊的なことで大切なのは、教えるというより、かもし出すということです。その雰囲気が必要で、雰囲気によって伝わる。いかなる言葉で語るかいかなるロジックで伝えるかではありません。霊の構造とか仕組みとか、工ーテル体がどうのこうのじゃなく、虫の音にモノのあわれみを感じるという雰囲気です。その雰囲気でモノ本質の情報が霊的な部分に伝わる。
池田
たとえば、Aさんがずっとテレビを見ているとします。一日中見ている。ときにはチャンネルを変えるかもしれませんが、テレビにずっと釘付けの状態です。ひとつ番組が終わるとすかさずコマーシャルが入って次の番組に続き、息抜きにはすぐコマーシャルが流れる。ここには全く隙間がないですね、虫の音の。物質社会になったというのは、ある意味でこれと同じじゃないでしょうか。
鮒河
そうですね。インドの夜は暗いですし。教育でなくていいんです、雰囲気で。これは大切なことです。存在するものはすべてモノの波動、固有の情報というものを持っています。あらゆるものがそうで、雰囲気もそうですし、文章もそうです。平家物語や万葉集を、ロ語訳で読んでも心には響かないのは、文章がひとつの波動だからです。ですから、論理的に教えたり、情報を伝えることに意を砕いても本質が伝わらない、もともとの情報が消えてしまうということがあります。ひとつの文章、思想はそれ自体で波動、エネルギーを持っており、音楽と同じでパーツに分けられない。近代の考え方はパーツに分解して、また組み立てるというものですが、すでに全体としてあるものが雰囲気をかもし出す。パーツや組立てではない。まず分析ありきでは、この雰囲気というか調和の方向には向かわない。
池田
部分と全体ということがありますが、全体をすべて部分の集合という側面だけで考えてきたわけですね。ですから、「出来上がっている全体」という考え方がなくなり、調和が失われてしまった。私はよく「あるがまま」という言葉を使いますが、あるがままが許されなくなり、一旦切り刻んで、あるとはどういう状態、情況であるかという止まったモノの見方で、そこにはシステムとしてのつながりが見えにくい。科学技術の発達のもうひとつの面でしょう。
鮒河
世の中には公害とか環境破壊、核戦争といった矛盾があり、それらは人間の無知や横暴からきていると言う人もいますが、私は人間はそう愚かなものじゃなく、最善を尽くした結果がそれじゃなかったかと思う。たとえば生産効率なら生産効率をまじめに追求した結果が奈落の底の競争社会とか。あらゆることは善の気持ちで始まったが、調和の視点を欠いていた。つまりパーツの性能を上げて再び組み合わせるという分解の発想だった。別段間違った歴史というわけじゃない。そう考えていくと、同じことを繰り返さずに済むのじゃないかと思いますが。
池田
そうですね。悲観論も楽観論も視点をもう一度考え見直す時期に来ていますね。それがインターネットなどを通して、新しい価値観としてどんどん表に現れてくるでしょう。
鮒河
これからは個が何を考えているかが見えてくる時代だと思います。全体の仕組みとして非常に大きなスローガンのもとに、みんなで行動しようというようなものじゃなく、個が自然に思ったことの最大公約数的な動きによって世の中が進んでいくのじゃないか。その中で、今までは二重の側面で使い分けてきた、人間の本質としての真とか善とか美というものが、本音で表現できる世界になるのじゃないか、あぶり出されてくるのじゃないかと思います。
池田
私は数年前から、国境もなくなる、貨幣もなくなる、病気もこの世からなくなると言ってきました。当時は荒唐無稽と思われたかも知れませんが人間の本質はそういう枠を越えた存在であるわけです。それが90年代に入り、経済の幻想が危うくなるとともに、社会主義の崩壊資本主義の行き詰まりと、イデオロギーの限界が露になってきた。 そして今、インターネットという伝達の手段の中でとはいえ、国境も貨幣も現実になくなっています。これは、情報産業という資本主義の上にありながら、まさに資本主義を付き崩しているという意味で象徴的なことです。時代性を見ても、ちょうど人間が幸福であるとはどういうことか、人間の進化とはどういうことか、人間の本質とは何かを考えるステージに来ていることや、環境破壊、経済問題と共時性があることが特徴でもある。これらが、すべてつながり合った、同じ根から出ていることの証でもありますが、宗教で言えばその流れの中で教団という国境も崩壊の時を迎えていくのだと思いますね。一つひとつの現象を取り上げれば、原因-結果の図式があるかも知れませんが、もっと大きな目で見たとき、私たちの本質と言いますか、来るべき世界のカタチが見えてくるように思われます。おもしろい時代になりました。

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