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又従兄弟です
遺稿集の表紙と寺山修司の選評 | ||
星の歌 | 死と黒犬の 対話 |
斜視 |
純白な花 | 死への ジャンプ |
微風と すかいぶるう |
絵筆 | いのちと 星の歌 |
石と夕立 |
風と蓮華と 少女と男 |
小鳥と少年 | |
急性白血病で高校3年生と言う若さで逝った奥瀬隆行君は、優れた感性と知性の持ち主で、お馬鹿なことばかりやっていた3歳年上の私にとっては少し苦手な存
在でした。 伊賀上野市長をしていた彼の父と、私の母が従兄妹で、よく伊賀上野に遊びに行きました。 いつの頃からか、彼が雑誌に投稿した作品が度々入賞したと聞いていましたが、ステレオいじりや、武器作りばかりに嵌っていた私にとっては関心が無い話で、彼の生前に作品を読むことはありませんでした。 突然彼が白血病で倒れて、黄疸で黄色くなった顔の彼に気休めの言葉をかけたら、死を覚悟した冷静な言葉が返ってきて、ショックを受けたことを覚えています。葬儀が終わって、どれぐらい経ったか覚えていませんが、遺稿集が送られてきて初めて彼の作品に接しました。投稿する際は宮内黙と言うペンネームを使っていた事も 初めて知りました。 寺山修司氏が高く評価していたと知って、生きていたらどんな人になっていただろうと考え、作品集をホームページに掲載してみました。※彼が逝ったのは、今から50年以上前の話です。 |
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奥瀬隆行君が雑誌投稿の際に使ったペンネームの宮内黙は三重の陽明学者である 宮内黙蔵から拝借したものです。 高校生で陽明学者に心酔していた彼の頭の中は、お馬鹿なことばかりに嵌っている私には理解できません。 宮内黙蔵(1846〜1925)は明治・大正期に活躍した三重県亀山市出身の陽明学者。 二松学舎や國學院大學の教授を歴任したが、その間に8冊の単行本と8種の漢文学 講義録を公表した。 |